子どもから学んだこと

子ども達に如何にインスピレーションを与えられるか、ということを考えてきたつもりであった。そして、その想いは今でも変わらないし年長の人間として一つの責任であるとも考えている。

でも、よくよく考えてみると、事態はまったくの逆で、私は子ども達から多くのインスピレーションを受けていたのだ。子どもってのは、一体何なのか。

もちろん、何でもかんでも、子どもは素晴らしいだなんて言ってはいけない。彼らは未熟だから大人が教えなければならない修身教育的なものは厳然と存在する。しかし、子ども達の中にある純粋な想いは、それそのものがインスピレーショナルな存在なんだと思う。

いつからか、あなたは将来何になるの?と聞かれたときに「サラリーマン」と言うようになった。サラリーマンの仕事が、どんなことをしているのか知らなかったのに。

昔、トラックで牛乳を運んでくれる兄さんを見て、自分の将来の夢は牛乳を運ぶ兄さんになりたいということだった。理由は単純で、牛乳が大好きで、あの兄さんがカッコよく見えたからだ。

生き物が大好きな子どもがいて、そいつの将来の夢は「生き物に関わる仕事」と言っていた。しかし、半年後には「サラリーマン」と言うようになっていた。

自分のやりたいことを見つけ、それに向かって生きなさい!!という言葉の裏には、結構な覚悟を要することを、ほとんどの人は忘れている。そういう意味で、この言葉があまりにも軽く流布されてしまっているのに批判が為されるのも良く分かる。でも、「自分の人生」を生きる覚悟ができた人にとっては、「自分のやりたいように生きなさい」という言葉は真実以外の何物でもないと思う。

私たちが子ども達に伝えるべきことは、「自分のやりたいように生きる」ということの意味なのかもしれない。

「自分のやりたいように生きる」ということが、どれだけ素晴らしく、どれだけあなたがたの命を輝かせるか。

一方で、「あなたのやりたいこと」は、絶対に誰かの問題を解決するものでなければならないこと。そうでなければ、「あなたのやりたいこと」は単なる自己満足になってしまうこと。この自己満足が、同時に「他人のため」になるためには、多くの場合、相当な時間がかかるということ。

この相当な時間を忍耐し続けれることができるかどうかが大事であるということ。忍耐している間には、仮の宿に住まなければならないこと。その仮の宿に住んでいる間は、相当な葛藤があるということ。葛藤し続けつつも、仮の宿に住む自分を認めてあげること。

多くの人々が、仮の宿に住んだまま人生を終えてしまっているように見えること。仮の宿に葛藤しながら住む人々の気持ちを理解すること。彼らにこそ、問題解決すべき源泉があるということ。

何故、こんなことを改めて伝えたいと思うか。それは、子ども達から、それを教えなきゃダメなんじゃないの、と教えられたような気がするからだ。子どもの純粋な想いは、大人が守るべきものなんだと思う。