経験教育の産業化

教育の話。

 

教育産業には大きく2つある。

 

ひとつは、学歴教育産業。これは、キャリアとの繋がりが実証されているものだから投資対象となる。中学受験も高校受験も大学受験も全ては、ちゃんとした企業への就職を有利に進めさせるために頑張る、と言っても過言ではない(もちろん例外もある)。その他には、資格試験・英語教育なんかも、こちらのモデルに含まれる。矢野経済研究所(2013)によれば、この学歴教育モデルを前提とした市場規模は2兆5000億円程度だそうです。大きいな。

 

もうひとつは経験教育産業。これは、キャリアとの繋がりが曖昧だから投資対象となりにくい。具体例は、部活とかボーイスカウトとかボランティアとか。これらの活動によってキャリアにプラスに働くかどうかは分からないが(体育会などはキャリアにプラスに働く部分もある)、そこでの「経験」そのものが大事であるという認識が共通にある。ゆえに、その経験そのものを目的とする意味で経験教育産業と勝手に呼ぶことにした。こちらの市場規模は、シンクタンクなどが発表していないので調べようがない。というのも、ほとんどが地域社会からの経済的及び精神的な寄付によって成り立っているものがほとんどだからだ。もし、こちらの市場規模を調べられるとするならば、そこそこの市場規模はあるような気はしているが、学歴教育産業とは比にならないくらい小さいだろうと思う。そういった意味で、「産業」にさえなっていないサークル的なノリを引きずっているのが経験教育産業の正体といったとこだろうか。

 

俺は学歴教育も経験教育も両方とも結構大事だと思っている。ただ、どちらが面白いと思うかと問われれば経験教育の方だと答える。そういうことで、経験教育をちゃんとした「産業=継続する仕組み、経済が回る仕組み=人が雇用される仕組み」を創っていきたいなぁとおもうのである。

 

 

朝から8キロ走ると疲労感が残る。昼寝をしてしまう。おそらく、8キロ走って、その後元気にやっていく基礎体力がないのだろう。基礎体力の無さの原因ほとんどは、食事内容だと思う。

 

栄養面にしろ、必要量にしろ、何も考えられていない。中学や高校の頃は、なんだかんだで、学校の給食と、親が作ってくれる夕飯を食べて、そこそこ栄養バランスのとれている食事をしていた。

 

だけど、社会人になって偏った食事をしてしまう。腹にたまればええや、と考えてお菓子ばかりを食べたりしちゃってね。

 

こだわりすぎて自炊にそんな時間をとられてはならないと思うけど、ちゃんとした料理を食べるようなルーチンをつくりたいなぁと思う。そうすれば、お昼と夕飯の食事代も少し節約できるし。

 

これを継続するのは中々難しいそうだな~。

屋久島

屋久島にいってきた。

 

縄文杉を見てきた。スタート地点から縄文杉までは、約11キロあり、はじめの8キロくらいはトロッコ道をひたすら歩く。その後の3キロは、トレッキングコースとなっている。通常、片道5時間くらいかかるもので、結構辛い。

 

縄文杉にいたるまでには、縄文杉級の杉が結構あるので、やっとの想いで縄文杉に到着!!となるのだけど、感動はそんなにない。山登りの醍醐味は、辛い想いをして頂上に着いた時、それまでの辛さを吹っ飛ばすような綺麗な景色に出会えること。だけど、縄文杉では、この醍醐味を味わえない。ゆえに、中々辛い想いをして登ったのだけど、どこか「う~ん」と思う。そんな想いを抱えたままに下山。下山も5時間くらい。

 

ハードワークを終えたぜ!!という壮快感はあるかもしれないけど、人生を揺さぶられるような大きな感動をもらえたのかというと分からない。もちろん人によるわけだが。

 

一方で、その次の日に行ってきた白谷雲水峡。こちらは縄文杉とうってかわって本当に素晴らしかった。俺は、根津美術館の庭がとても好きだ。その庭より数百倍も素晴らしい風景をひたすら見ながら山を登っていくイメージ。もののけ姫のモデルとなった森らしいが、本当にここは綺麗で神秘的で厳か。最後は、太鼓岩ですべての疲れを吹っ飛ばす景色に出会える。あ~屋久島にきてよかったぁと思える。太鼓岩で眺めた景色を思い出すだけで、この先3年くらいは、エネルギーを充電できるだろう。

 

屋久島はいった方がよいところだ。それも若い内に。若くないと中々しんどいと思う。

 

 

両膝痛めた

膝が痛い。高校の時に左膝の靭帯を痛めたのだけど、そこが少し痛くなっている。今までは、右ひざが痛かった。その原因は、痛めた左膝を庇う癖が知らぬ間についてしまっていて、右足ばかりに負担がかかる走り方になっていたからだと思う。おそらく、右足と左足の筋肉量も異なっていたのだろうと思う。

 

そんで、今度は左膝。これは、この前、子ども達とサッカーした時に、痛めてしまったもので、今の強度のランニングを続けていると確実に悪化しそうな勢いだ。右膝も左膝も痛めちゃってどうしましょ。

 

とりあえず、ランニングの強度を下げて、水泳とかウォーキングとか筋トレでリカバーしようと思う。

 

悔しいけど仕方ないね。

 

もう8月20日だ。夏も終わるぜ。

ビジネスモデルのあれこれ

ウェブビジネスを考える際のビジネスモデルについて考えを巡らせることがある。

 

例えば、大学の授業を無料で配信したりするもの。これは本当にOKなんだろうか。ウェブの世界では当たり前のようになっているけども、その大学の授業ってのは、生徒のお金やOBのお金をメインにして運営されているのにも関わらず、その大学の生徒以外に無料で公開する。

 

これって、どうなんだろう。道理に適っているビジネスモデルなんだろうか。

 

例えば、昨今のキュレーションメディア。グノシーやスマートニュースなんかはウェブ上にある記事をまとめて配信している。そこで、広告料金をとったりしているわけだけど、自分で書いてもいない記事を集めるだけ集めて配信して、お金をもらうビジネスモデルって道理に適っているんだろうか。

 

オールドメディアとかいって馬鹿にされているけど、新聞社の記事制作に関わる覚悟や資金投下量は半端ない。だからこそ、つくられるコンテンツの質は担保されるし、だからこそ、ユーザーからお金を頂ける。

 

ウェブで当たり前になってるビジネスモデルが当たり前だと考えられるかどうかは疑わしいこともある。

 

だから、ウェブにおけるビジネスモデルを考えるときは、変に既存のビジネスモデルに捉われずに、それが道理にかなっているかどうかというポイントは忘れずに考えてみなければならないし、そのビジネスモデルで自分が守りたいと考える関係者を本当に守れるのかという観点も忘れてはならないような気がする。

俺の受容

くだらない自己顕示欲に悩んだりしたときがあって、そのときに、自分が尊敬できる人って誰だろうって思ったのだけど、その人達は自己顕示欲がないってことに気付いたんだ。とにかく、その存在そのものが重要であるってことを。

 

自己顕示欲とか承認されたいって気持ちが強いと、他人を出し抜いて発言をしてみたり、変に黙りこくったり、異常な迎合をしてみたり、飲み会の空気を一変させる発言したり、とにかく他人からみて、どこか「あの人目立ちたがりだなぁ」とか「無理してんなぁ」と思わせるような挙動を示す。

 

いや、自己顕示とか承認欲求ってのは人間が頑張る上で大事なものであるとは思うのだけど、度が過ぎると「痛いなぁ」と思われてしまう。そんなんであなた大丈夫?って言いたくなる。

 

と言っておいて、自分自身も、そんな自己顕示とか承認欲求にまみれているのだから、これは俺へのメッセージなんだが。

 

とにかく、人は自分が思ってる以上に、他人から「痛い」って思われている側面がある。つまり他人から見て、過剰に自分を強調しようとしている(そのやり方は様々だろうけど)。そういうことに自分自身が気づけないのは、実際は「痛い」と思われているのだけど、周りの人々が優しく自分を見守っていてくれるからだ。その優しさの意味に気づくことなく、自分を勘違いしてしまうか、それとも感謝の気持ちを持てるかの違いは大きい。

 

俺は、ずっと勘違いしてきた。優しく見守ってくれている人々が、内心「痛い」と俺を思っているだなんて思いもせず、彼らは自分を優しく見守り、時に手助けしてくれる人々だと都合の良い解釈をしてきた。とんだ勘違いである。こんなの、まさに、自分は世界の中心だとする発想だ。

 

それにしても、なんで痛くなってしまうのか。そのほとんどは、自分の自然体を受け入れられないところから来るように思える。つまり、「本来の自分=身の丈・個性」を受け入れられないから、身の丈にそぐわない行動をとろうとするあたりから「痛さ」が発生してしまう。

 

一方で、果たして自分の自然体を自分は受容することができるのかなとも思うのだ。なぜかって、自分の自然体を受け入れることは、理想を捨てることのように思い、理想に向かって追いかけることをあきらめたことのように感じ、つまり自分が怠けているように感じてしまったり、あるいは、それはよろしくないことだと考えてしまったりするからだ。

 

でも、結局、そうしないと前へ進めないってことは分かっているのだから、そうしなければならないんだね。自然体であることの先に、理想がある。だから、まず自然体であろうとする努力が大事である。矛盾のように感じるが、理想を捨てることが理想への近道なのかもしれないってことかな。